「新プロジェクトX」が始まりました。大好きだった番組(中島みゆきファンのためもあります)の続編の第1回は、わが地元(墨田区押上)の東京スカイツリーでした。

 

 日建設計、大林組。そして3社のとびが競い合い、途中からは助け合いながら634mの世界一の電波塔を狭い敷地に安全に造り上げていく。さらに、構造物の完成直前のタイミングで東日本大地震が襲う・・・という建設現場の「人」と「チームワーク」の番組に、私も改めて感動しました。

 

 同時に、私も国会議員として、さらに、国土交通副大臣として、この東京スカイツリーの誘致、建設の環境整備に大きく貢献できたことを、なつかしく思い出しました。

 

 

① 航空法による押上地区の高さ規制を撤廃

② 当時、最大額の「まちづくり交付金」を国土交通省が決定し、汚かった北十間川に遊歩道を整備したり、さらに「すみだ北斎美術館」建設による観光振興

③ 建設開始の段階で、東武タワースカイツリー会社に対し、国交省関連の民都機構が一部出資し、それが呼び水となり、大手10数社が出資に加わり、財務基盤を強化、(現在は東武鉄道の全額出資子会社となっています)。

 

 東京スカイツリーは、今では日本を代表する観光スポットですが、建設本来の目的は、デジタル化で首都圏全体に電波を送ることが、東京タワー(地上330m)では不可能になるため、新しい電波塔が必要になったためです。そこで、墨田区のほか、豊島区、さいたま市など15自治体が名乗りを上げ、誘致合戦を繰り広げたのです。

 

 その最中、私がまだ当選2回の2004年12月、山崎昇墨田区長(当時)が初めて、「頼みがある」と議員会館の私の部屋を訪ねてきました。

 「航空法で、押上地区は建築物の高さを295mまでとする規制がある。これを何とかしてもらわなければ、タワーを誘致する最低条件が満たされない」とのことでした。

調べてみると、羽田空港に着陸する飛行機のウェイティングゾーンとして隅田川の左右岸(浅草や、業平、押上など)に規制区域が設けられていたのです。

 たしかに、このままだと、東京タワーの高さでさえ建てられません。しかし、墨田区の上空にヘリコプターはよく飛んでいますが、航空機を見たことはありません。

 

 そこで、国交省航空局に対し、「安全のために必要な規制なら当然、必要です。しかし、羽田空港の発着便は押上の上空を飛ぶことはないのに、厳しい制限をしているのはおかしい。諸外国並みに規制緩和し、都市開発や土地の有効利用を進められる環境を整備すべきです。航空審議会を開いて議論して下さい」と主張しました。

その後、航空審議会が開かれ、国交省は翌年、この地域の建築物の高さ制限の撤廃を決めました。小泉政権の規制改革の流れに沿ったものでした。

 この規制撤廃がなければ、羽田空港から遠くて、規制のかかっていないライバル候補、豊島区や練馬区、足立区、さいたま市のどこかに決まっていたでしょう。最後は、墨田区、さいたま市の一騎打ちになりました。

 

 今は高さ634mですが、プロジェクトが決まった際は610mの予定でした。中国で建設中のタワーがそれを上回ることが明らかになり、「高さ世界一」を守るため、2009年10月、634mに変更が決まりました。「むさし」とも読めます。アンテナを取り付けるゲイン塔を伸ばしたので、着工後でも可能だったのです。

 

 

 公募によって、名称が「東京スカイツリー」と決定したのは2008年6月、着工は同年7月。幸運にも、私は国土交通副大臣を務めており、着工式で祝辞を述べました。

 電波は総務省の所管ですが、国交省は東武鉄道という鉄道会社を所管し、観光にも力を入れている過程(観光庁ができたのは同年10月)で、この事業に大きな関心を寄せました。

 スカイツリーは東武鉄道の敷地と、生コン工場に移転してもらってできた用地に建てられたのですが、横を流れる東京都所管の北十間川(きたじっけんがわ)は汚い川で、訪れる人もない殺風景な場所でした。

 

 そこで、「まちづくり交付金」を、「スカイツリーを中核とした観光都市すみだ」をつくるために用いることにしました。まず北十間川をきれいにし、橋を架け、遊歩ゾーンをつくりました。

 

 

 さらに、その頃、予定されていた「すみだ北斎美術館(葛飾北斎は90余年に及ぶ人生の中で、90回以上引っ越したが、ほとんどの間、墨田区内に住んでいました)の建設の補助にも当てることにしました。

 

 また、東京スカイツリーがこれほど人気を博して東武鉄道にとって「もうかる事業」になるとは予想できなかった着工時、国交省内には「莫大な建設費が東武鉄道の経営を圧迫し、鉄道事業に悪影響がでたら困る」という心配があり、東武鉄道の要望もあって、民都機構の出資を決めました。杞憂に終わって良かったです。

 

 誘致合戦勝利には後日談があります。国交副大臣時代に、JR東日本の鉄道博物館(さいたま市大宮区)ができ、開会式に招かれました。控室で地元の市議の方たちから、「松島副大臣、お地元はどこですか?」と問われ、「墨田区と荒川区です」と答えると、シラーと冷たい視線が返ってきたのです。さいたま市は新都心として十分栄えており、埼玉スタジアムも、さいたまスーパーアリーナも、彩の国さいたま芸術劇場もあるし、電波塔がなくてもいいじゃないの、と思いましたが。ちなみにこの開会式では、真っ白なスーツの吉永小百合さんと、いつもの赤いスーツの私が並んでテープカットをさせていただきました。